真宗大谷派 真照寺

ご挨拶

真実を宗とする宗教。
真照寺は、真宗大谷派のお寺です。真宗大谷派は、親鸞聖人を宗祖とした
京都の東本願寺真本廟を本山とした浄土真宗の一派です。
親鸞聖人は、貴族文化と武家文化が入れ替わる混沌とした平安時代末期に、
人としての生を受け、九歳から二十九歳まで比叡山で修業なされていました。

昔、お寺は地域の社交の場でありました。子供たちは学校が終わるとお寺の境内で駆けずり回っていました。
近所のお母さん方はお寺に来ては、井戸端会議に花を咲かせていました。
情報網のなかった時代、隣村から隣村へのさまざまな情報が茶飲み話としてお寺を中心に伝わってゆきました。
それは今からたった30年くらい前のことなのです。この30年間に何があったのでしょうか。

当時、お寺は日常生活の中で確かに存在していました。
境内から子供の姿が消え、法事や葬儀、お墓参りといった用事がなければお寺に参る方もいなくなりました。
地域共同体のかたちも変化し、人と人とのつながりも希薄になりました。
そういう時代背景の中で、日常からお寺は消えつつあります。
オウム真理教の信者が「寺は風景である」と言いました。
この言葉を聞くと、お寺に住むものとして、何をしてきたのだろうという自責の念と問いが生まれてきます。
お寺の敷居が高く、形だけのものになってしまったとしたら、それはお寺自身の責任です。
それは本来、公の場であるはずのものが、個人化してしまっているのです。
それがお寺の敷居が高くなった一番の原因であると感じています。

昨今は、宗教や道徳といったものが、必要になってきた時代だといわれます。
それなのにお寺が、その宗教的な機能をしていない。由々しき事態です。全く反省させられるところです。

世間には、癒しや心の問題を取り扱う方法や施設があふれています。
しかし、ある意味それらは対処療法的なものが多いのも事実なのです。
悩むことを忘れさせるのが対処療法です。

真の宗教とは根本治療だといいます。
「悩めることをしっかりと悩む」これが健康的であり、根本の解決につながるのだと宗教は教えてくれています。

真照寺としては、お寺の敷居を低くしてゆきたいという願いとともに、
しっかりと悩める場を創りたいという願いも同時にもっております。
どんな方でも気軽に話ができ、悩むことの出来る場をみなさまと創ってゆけたらなあと考えています。
個人で何もかも出来てしまう世の中だからこそ、他者との関係が大事になってきているのではないでしょうか。
子供が境内を走り回り、気軽に話が出来る場を回復してゆきたい。
いろんなことを模索しながらお寺ということを改めて、どういうところなのかを考えてまいりたいと思います。
それはお寺に住む者だけでは叶いません。
皆様と共に歩んで行ける寺として、どうしたらベストなのか、それも皆様と考えてまいりたいのです。
それが公の場としての一歩であると考えています。
最後に“お寺”というものが地域に開けた場であるということ、皆さんの場であることを念をおして、
ご挨拶にかえさせていただきます。  南無阿弥陀仏